読者の方から、コラムのご寄稿をいただきました。
ありがとうございました。
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おじいちゃん・おばあちゃんから聞いた昔の相模原
現在の相模原は、駅前を中心に大きく発展を遂げています。このように発展をとげることができたのは、そこにしっかりとした基盤があったからです。ですが、昔から現在のように栄えていたわけではありません。相模原はもともと農村の町でした。今となっては、昔の資料からしか、昔のさがみはらを知る手立てはありません。
しかし、現在生き証人として自分たちのおじいちゃんやおばあちゃんの世代は昔の街のことをよく知っています。
明治時代や大正時代の人が生きていることは少ないため、多くの場合は昭和時代の戦前から戦後の記憶になります。私も、実際に子供のころ相模原に住んでいた方から、当時のことを話していただいたことがあります。
当時はまだ戦争が始まったばかりのころで、非常に活気づいていましたが、のちに東京周辺が空襲されるようになります。相模原に被害があったかといえばそれほど大きな被害はありませんでした。なぜなら、現在のように人口が多かったわけではなく、主に農村が広がっていたからです。人口が増えてきたのは戦後10年ほどが経過した昭和30年ぐらいからになります。
戦争が終わると、相模原にある陸軍の造幣所にいた人々は解散をしていき、にぎわいがあった町も静かになりました。戦争が終わったばかりのころは食べるものが少なく、学校に行っても栄養が偏ったものしかありませんでした。今でこそ栄養をよく考えた給食が出ますが、当時はそのようなものはなく、ほとんどがサツマイモなどのイモ類ばかりでした。
日本が昭和30年代から少しずつ景気が良くなり、食べるものが増えてきてからというもの、相模原も少しずつ活気が出るようになりました。
昔の駅前には2階建ての建物ばかりでしたが、ビルが建築されるようになってきたのは昭和40年代ぐらいです。やがて昭和60年代前後になると10階建てや20階建てのビルなどが立ち並ぶようになりました。もちろん駅前限定です。
その後平成になってからは駅の近くにマンションができるようになり、東京に通勤する人がそこに住むようになります。
街全体が活気づいたのは良いですが、様々な問題も生じました。それは昔なかったような交通渋滞です。おじいちゃんやおばあちゃんが子供のころあるいは若いころ、車の免許を取るのも簡単で、道も今のように車がたくさん走っていたわけではありませんでした。渋滞などはほとんどなかったようです。便利になる一方で様々な問題が出てくることを私たちも知るようになりました。
昔のはなしを知ることは、自分のまちのルーツを知ること。もっといろんなお話を聞きたいと思いました。
— 以上 —
楽しいコラムありがとうございました。
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